沿革 御祭神 歴代公紀 土佐藩略史

主な御祭神

【一豊公】(かつとよ)

 天文十四年(1545)尾張黒田城主山内盛豊の三男に生まれた。幼名辰之助、元服後伊右衛門一豊と名乗るが、 その2,3年前に、父及び長兄を失い、母と弟妹の五人は縁辺をたよって流寓し、やがて一豊は山岡景隆に仕えた。23才〜29才の間に秀吉に仕え、また、妻をめとったという。 そして、天正元年(29才)頃から、北陸・東海・山陽の各地の戦に出陣し、累次武功を積み、 天正十二年、41才の時、長浜二万石の大名となった。天正十八年「北条小田原攻め」の戦の功により遠州掛川五万石の城主となり、 在城十年よく領内を治め経世の手腕を発揮した。慶長五年、関ヶ原の戦では家康方につき、戦後、土佐二十万石の国主となった。 翌六年一月、土佐へ入国、直ちに領国経営にかかり、高知城を築き、城下町を開くなど藩政の基礎を造った。 一豊公の遺した功業のうち、高知城と城下町の建設は今に至るまで不滅の光を放っている。 慶長十年(1605)九月逝去。61才。

【一豊公夫人】
夫人は弘治三年(1557)の生まれで近江浅井氏の家臣若宮喜助の娘と伝えられるが、また、美濃郡上八幡城主遠藤慶隆の妹ともいう。 幼時父を失い、母方の親戚、美濃の不破氏に養育されたという。 少女時代、一豊の母の法秀院に裁縫や習字を教わったという。14才から17才の時、その頃秀吉に仕えはじめた一豊公に嫁いだ。 貧乏生活の中で、使わずに持っていた持参金で名馬を買った逸話はよく知られている。 夫人は聡明で情深く、よく夫をたすけ家を守った。 また、関ヶ原の戦の際に、敵中の大坂から情報と忠誠の密書を送って、夫の殊功の端緒を開くなど、 機智に富み、困難に立ち向かう勇気をもそなえた婦人であった。元和三年(1617)十二月、京都で没する。61才。

【豊信公/容堂公】(とよしげ)

十五代藩主、文政十年(1827)十月、分家南屋敷豊著の嫡子に生まれたが、嘉永元年十二月、藩主の相次ぐ早逝のため本家を相続した。 英遇にして気鋭、文武両道に勝れた。嘉永六年ペリー来航、武力を背景とした開国要求に困惑した幕府は朝廷や諸大名などに意見を求めたが、土佐藩は豊信の名をもって意見書を提出したが、この後、豊信公は松平春嶽公等と共に将軍継嗣の問題や条約勅許の問題等の、最も重大な国事に深くかかわるに至り、井伊直弼が大老に就任すると激しく対立した。 安政五年、井伊大老の弾圧を受け隠居・謹慎の身となったが、時勢変転し四年後(文久二)謹慎が解かれるや「公武合体」を理想とし、一橋慶喜、松平春嶽に協力して幕府の政治改革及び朝廷と幕府の融和に 心を砕き力を尽くした。慶応三年十月、時勢を洞察して、将軍に対し、政権を朝廷に還すよう建言して幕府最後の舞台に歴史的な役割を果たした。明治五年(1872)六月逝去。46才。

【豊範公】
十六代藩主、弘化三年(1846)十二代豊資公の末男に生まれる。安政六年二月襲封、年14才であったが、 時まさに幕末激動期の最中、先代豊信公以来、国政の上で重要な位置に在った土佐藩の藩主として内外の諸問題に対処していかねばならなかった。 豊範公は資性穏健にして誠実、また、尊王の志篤き人であった。文久二年朝廷より京都御所の警衛と国事周旋の大命を受け、勅使東下の際は藩兵を率いて護衛の役を果たし、ゆえに土佐藩は薩摩、長州と並んで勤王三藩と称せられた。 藩政においては航海・勧業貸殖の策を実施し、文武館を開設するなど時勢に対応した政治を行った。 慶応四年(明治元年)二月、鳥羽伏見の戦に始まる戊辰戦争では、朝廷より幕府軍征討の大命を受け、土佐藩は官軍の主カとして力戦し、維新の幕開けを推進した。 明治新政府が成立してからは先んじて版籍奉還及び廃藩置県を行い、わが国政治史上、極めて重大な役割を果たした。明治十七年侯爵に列し、同十九年七月、逝去。41才。

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